“例えばイタリア語教室でイタリア語を教えようとするときには、教えやすいかもしれません。決まり文句を教える、ということでいいわけですから。また、イタリア語が動きが少ない、というのは、言語として成熟している、ということが出来るかもしれません。では、日本語はどうか? と問われれば、私たちの言語は、動きが早い、んですよね。これは、賛辞ではありません(笑)。イタリア語教室を運営するよりも、日本語教室を運営する方が、高くつくかもしれません。” いろんなイタリア映画を愉しんで観る、出来れば、日本語の字幕を消すことが出来るDVDなどで観ると、自宅に居ながら、イタリア語教室に出席しているような気持ちになれます。費用も、DVDを購入するくらいのことで済みますから、実際に、イタリア語教室に入会するよりは、ずっと安く済みます。しかし、この、自宅イタリア語教室、を自分で開講するためには、まず、映画が好きでないといけません。それも、特定の映画を複数回観ることができないといけないのです。1回目は、日本語の字幕のついたものを観てもいいでしょう。2回目は、字幕を消す。これでようやく、自宅イタリア語教室になれます。この、一度観た映画をもう一度観る、ということは、映画好きでないと、なかなか出来ないんですね。それも、特定の映画を好きになることです。イタリア語の特定の映画を。好きにならないと、愉しんで観られません。愉しんで観ることが出来なければ、台詞の意味を深く考えることも出来ないでしょう。と、なれば、イタリア語で台詞を聞きながら、頭の中で日本語に翻訳せずに、場面場面を丹念に観ることなどとても出来ません。自宅イタリア語教室には、これだけの条件が揃わなければならないのです。
1月
5
12月
1
7月
18
“仕事の関係で、3か月でイタリア語を速習しなければならない、というようなニーズを満たすには、やはり、本当のイタリア語教室に通うことになるでしょう。イタリア語教室としては、そういったニーズを持った生徒を集客する方法としては、速習出来る、という点を宣伝文句として打ち出すことが効果的でしょう。うちのイタリア語教室に通えば、3か月で成果が上がりますよ、で、その成果というのは、イタリアで生活するのに差し支えのないイタリア語をマスターすることが出来ますよ、是非、わがイタリア語教室にお越しください! というような感じですね。実際のところ、3か月間、どのくらいの頻度でイタリア語教室に通えば、それだけの成果が上がるのかどうか、私には定かではありませんが、少なくとも、自宅イタリア語教室、では、そんなに早く実用的な力が付くとは思えません。そういうときには、本来のイタリア語教室が望ましいですよね。” 急にイタリアへ行くことが決まって、慌てて、家や車を売るといった準備をして、慌ててイタリアへ旅立った、という例を見たことがありますが、彼の場合、勿論、事前にイタリア語教室に通う、なんていう準備は行っておりません。ただ、彼は、英語とドイツ語が出来たので、イタリア語についても、現地イタリア語教室で、速習が可能なのではないのかな、と見ています。英語もドイツ語も、ヨーロッパの言語です。ラテン系ではありませんが、イタリア語を学ぶのも、英語やドイツ語が出来れば、早いだろうな、ということなのです。現地で、イタリア語教室に通う、ということも出来ますしね。
12月
17
日本でイタリア語教室を開くとして、イタリア語教室は、ビジネスになるでしょうか?
語学教室そのものが、昨今では、ビジネスに成り難くなっているような気がします。
いえ、私の個人的な意見ですが、・・・昨今成り難くなっている、のではなく、もともと、ビジネスとしては、語学教室、というものは、うまみの少ない事業だと思います。
ビジネスとして成立させようとすれば、ひとりの講師が、出来るだけ沢山の生徒を、一回の教室で、一斉に、教える・・・そういうやり方でいくことだと思います。しかし、そういうやり方・・・一回の教室で、教室内に、出来るだけ沢山の生徒を押し込める・・・そういうやり方では、きめの細かい指導は出来ません。特に、語学というか、言語というか、例えばイタリア語ならイタリア語に対しての思いも習熟度も目的もまちまちの受講生をいちどきに指導するのでは、全ての生徒が消化不良を起こしてしまうでしょう。語学の指導は、理想は個人レッスンですよね。いち教室にひとり。これがいちばんいいのですが、個人レッスンで教室を運営するとして、個人レッスンだから、とびきり高い料金設定が出来るかと言うと、まず、それも、現実的とはいえません。
そこらあたり、どのようにカリキュラムを作り、教室を運営していくか・・・そこのところが、語学教室がビジネスとして成り立つか、の、分かれ目、と、なりそうです。
私は、これからも、イタリア語の映画や、オペラを愉しみながら、イタリア語教室、としても愉しんでいこうと思っています。でも、あまり高くない料金で、“イタリア語を話す”ことを教えてくれるイタリア語教室があったら、その教室へも、通ってみたいと思っています。
12月
15
実際に、イタリア語でコミュニケーションがとれること・・・イタリア語教室に通うのなら、そこまでいかなければ、教室としての意味がない・・・。それもひとつの考え方ではあると思いますが、イタリア語でペラペラ喋れるようにまでならなくっても、私は、イタリア語教室に通う意味はあると思っています。先のほうの記事にも書きましたが、イタリア語の映画を観て、それも、好きな作品を選んで観て、愉しみながら、イタリア語を覚える・・・そんな、私的なイタリア語教室もありますし、そういう教室だって、とてもいい、と思うのです。だって、イタリア語で離せなくっても、映画の台詞の意味が、イタリア語のまま、わかるって、嬉しいじゃないですか。それに、観光旅行でイタリアを訪れる程度なら、カタコトのイタリア語でなんとかなるんじゃないでしょうか? その、カタコトのイタリア語を学ぶために、イタリア語教室に通う、っていうのだって、ありだと思うんです。
それから・・・映画だけじゃありませんよね。オペラだって、イタリア語で歌ったり、台詞を廻したりしている作品が沢山あります。モーツアルトの歌劇だって、イタリア語の作品が大半でしょう? あれ、対訳なしで楽しめたら、こんなに素晴らしいことはありませんよ。それこそ、イタリア語の優美な語尾に浸れる、ってもんです。オペラ鑑賞だって、とても有意義な、“イタリア語教室”になりそうですよね。
是非、お試し下さい!! “イタリア語による歌劇を観る、イタリア語教室”
12月
12
イタリア語の出てくる映画をイタリア語教室に見立てて、あたかも教室でイタリア語を学ぶように、学んでいく・・・有益な方法だと思われます。私は、実際に、“イタリア語の映画によるイタリア語教室”に実際に学んでみて、その素晴らしさを実感しております。
で、聞くことについては、まあ、日常会話で最低限使う程度の単語であれば、ひととおり観につけたかな、なんて思っております。が、いくらイタリア語で作った映画を観ていても、イタリア語を話せるようにはならない、ということに気がつくまでには、少なからず時間が必要でした。“聞くこと。理解すること”で完結するイタリア語教室なのですから、話せないままであることに、無理はないのです。話せるようになることが目的であるなら、やはり、話せるようになるようなレッスンプログラムをしているイタリア語教室に通う必要がありますよね。で、話せるようになるところまで指導する、ということを売りとして、そのことを集客方法にしているイタリア語教室、というのが実際にあります。まあ、考えてみれば、語学教室というのは、実際にその言語を使いこなす、ということは、話せるようになることだ。イタリア語教室であれば、教室で学ぶことによって、実際に、イタリア語で、自身の意思表示が出来、イタリア語を話す相手と、精度の高いコミュニケーションが出来るようになることだ。それでこそ、そこまでいけてこそ、語学教室としての値打ちがあり、存在価値がある。・・・そんなふうな考えが、一方にあります。
12月
9
20世紀の初頭、イタリアから、多くの人が新大陸へ移民したようです。ゴッドファーザーⅡは、アメリカ映画ですが、ビト・コルレオーネが、少年時代、故郷のシシリーを追われて、船でニューヨークへたどり着いた辺りが描写されています。窓口で、英語で名前を訊かれますが、通じず、通訳を通します。通訳は、“うお・のーめ?”と訊いています。
この映画で、私は、若い頃に、“ぐらーちぇ”というイタリア語を学びました。“み・でぃすぴあーちぇ”も、“ふぁみりあ”も。まさに、わたしにとって、座して学べるイタリア語教室でした。どんなに優れたイタリア語の教師に、教室で、個人レッスンで学んでも、これほど鮮やかに、脳裏に焼きつかせることは出来ないでしょう。“おりいべ・おいれ”という発音を知ったのは、この映画のⅢだったでしょうか。
ゴッドファーザーは、マフィアの一族を描いた映画ですが、その正当性や、是非についてはひとまず措くとして、家族や、家族愛について描いている、という側面があり、そこは、この映画の重要なテーマとなっています。次男のフレド・コルレオーネの妻が、“イタリア人って、自分の妻には異常よ”と英語で口走るシーンがあります。これはまあ、どうかな、と思う台詞ですが、家族の繋がり、とか、絆、とか、そういうものを、イタリア映画からは、強く感じられるような気がします。“ふぁみりあ”ですね。そういったところ、イタリア語教室としてのイタリア語映画、としても、重要なポイントですよね。家族揃っての食事。“ちきん・かちゃとーれ”、“まんま・みーあ”。
12月
5
イタリア語で会話することがイタリア語教室なんだ、と力説したイタリア人の男性が、直接の会話以外にイタリア語教室として“いい”と、薦めてくれたのが、イタリア語の映画でした。彼は、日本でも観ることの容易な作品のうち、フェデリコ・フェリーニの作品を薦めてくれました。
“映画で学ぶイタリア語教室”の第一の作品として、私は、フェリーニの“道”(LA STRADA)を選びました。ジュリエッタ・マシーナ、アンソニー・クイン、リチャード・ベイスハートらが出演しているこの映画は、アンソニー・クイン演じる“ザンパノ”と、ザンパノに買われて、彼のサーカス芸人としての旅に同道する、純粋な少女ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)との道行きを描く秀作です。ザンパノに怒鳴られながら、太鼓をたたいて、“ザンパノ登場”と、イタリア語で件(くだり)を述べる練習を続けるジェルソミーナの滑稽さと、愛らしさに目を奪われながら、“や・りばーと・ざんぱの”とのフレーズを憶えこんでしまっている自分に気がついて、イタリア語講座としてのイタリア語映画の威力の程に感じ入ってしまいました。
あれだ、あれだ。こうして憶えたイタリア語なら、もう忘れない。と、いうか、焼きついてしまっている。脳裏に。ジェルソミーナの顔や仕草と共に・・・。これこそ、語学教室というもののひとつのあり方ではないだろうか・・・。私は、そんなふうに考えました。安酒場で赤ワインを注文するザンパノの馬面や、酒場で行き会った赤毛の女性に“ロッソ”と声を掛けるザンパノの好色な表情も、一度観たらもう忘れられません。ロッソ、という色を著す単語と共に・・・。
12月
1
フェデリコ・フェリーニ
Category: イタリア映画 |
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“ゴール前に、“鍵をかけるように”しっかりと閉じて、最終ラインから一気にカウンターで、手数をかけずに攻める、というイメージのあるイタリアのサッカーに、私は、イタリア語の優美な語尾のイメージとは違った、彼らの勤勉な性質、とでもいうような部分を感じ取ってしまうのです。“
先回の記事の最後に、私は、上述のように書きました。イタリア代表チームのサッカーを見ますと、情熱的な彼らの民族性、とでもいうようなものの片鱗を見せ付けられるような気がします。
“私たちは、怠け者なんですよ” と、イタリアの人が、カタコトの日本語でそういっている場面に出くわしたことがあります。照れ隠しにそういうのか、それとも、本当にそう思っているのか・・・日本人の勤勉ぶり(最近は、そうでもないかもしれませんね)を目の当たりにして驚いた、という感想の裏返しの言葉かもしれません。彼らのサッカーに対する情熱に接すると、決して、彼らは、怠け者ではない、と思います。で、自分たちのことを怠け者だといったイタリア人に、“イタリア語教室を開いて、日本で、イタリア語を普及させてみませんか?”と問うてみたら、
“教室を開くって・・・、イタリア語を教えるのに、教室なんかを開く必要はありませんよ。ほら、こうして、あなたと私は、会話をしている。それを、イタリア語でやればいいんです。それが即ち、イタリア語教室、ということになりはしませんかね?”
“それとも、イタリア語で出来ている映画を観てください。・・・そうですね。フェデリコ・フェリーニの作品なんか、どうでしょう?”
11月
28
第二次世界大戦当時のイタリアの指導者だった、ムッソリーニという人物についても、あまり、いい印象はありません。
ピアノ・ピアノイタリア語教室です。
ムッソリーニという固有名は、ヒトラーという固有名と共に、中学校や高校の教室で、歴史の時間に、よく聞かされていたことと思います。ドイツはともかく、イタリアのような個人主義の国で、ムッソリーニのような独裁者がよくも成り立ったものだ、とは、ある歴史家の言葉ですが・・・。まあ、時代背景が、権力を集中させることによって、国事の決定のスピードを速めることを要求していた、という側面があったのかもしれません。しかし、それにしても・・・ここは、イタリア語教室ですから、イタリア語のことに触れますが、イタリア語は、歌ったり、詩を書いたりするにはいい言語ですが、かんかんがくがくとやりあうにはあまり適さない言語であるような気がしてなりません。語尾の延ばし具合が優美なんですね。そこが、私がイタリア語に関心を持つ理由なのですが・・・。
軍隊での指揮命令に使う言語としても、イタリア語の語尾は、優美に過ぎると思います。それでも、イタリアは、サッカーは強いですよね。古豪国、といっても過言ではないと思います。試合中に、優美なイタリア語で、互いに指示をしたり、言い合いをしたりするのでしょうか?
特に、ゴール前に、“鍵をかけるように”しっかりと閉じて、最終ラインから一気にカウンターで、手数をかけずに攻める、というイメージのあるイタリアのサッカーに、私は、イタリア語の優美な語尾のイメージとは違った、彼らの勤勉な性質、とでもいうような部分を感じ取ってしまうのです。